2008年08月05日
ヒロシマナガサキ
夜中の国営放送を見た
いろいろ考えることもあるし
自分の微々たる知識で
描くことではないとも思える
けど
そーゆー僕が想うこともあっていいし
時間が経った時に
何かのきっかけとか思い出とか
なんかになるかもしれない…
悲惨な体験と映像で
僕は時々目をつぶってしまった
もっと子供うちにこれを目の当たりにされるのは
ちょっとしんどい…
何にも知らない考えてない
ノーテンキな子供だったし…
それでも残したい、知らせたい
気持も、今の大人の僕なら理解できるけど
それを子供らに押し付けるのはどーかと思うし
僕は賛同しない
基本
語りづがなきゃいけないのは
戦争の悲惨さ
ではなく
悲惨なところから頑張った今
なんだと
僕は思う
単に
悲惨さだけを伝えても残しても
風化する
体験者じゃない僕らが残せること
伝えられることは
あくまでも誰かのもので
自分のものとは違う
だから風化する
でも
そこからがんばった今は
実体験だし
それを聞いた僕らが何を想い
どーしたのかは体験談として
話して残して、伝えられる
被爆体験者に対しての感情はないけど
もっと昔
僕がばかな子供だった頃
戦争を話す人らはいた
えらそーな感じがした
ま、思えば確かにえらいところもある
生き抜くこと
生き残ることが
生物として
勝者であると言えた時代もある
勝者だから、生き残って勝ち残ってきたから
えらい
のだ
が、今この時代に
生き残ることを勝者であると
言えるのか、呼べるのか
僕の答えは
違うと思う
過去を忘れ、自分を忘れ
それでも生きようとする生物としての
システムは
誰が望んでいるのかも含め
議論の余地がある
そこは、人としてそれぞれが求め考えればいいことだから
僕の答えは問題じゃない
必ずしも勝者として讃えられない
生き残ることがすべてではくなった
成熟し始めた社会の中で
偉くなり損ねた人らを
あわれと思うのかは別として
えらかったころのその人らは
自慢げに
生き残ってきたことを話していた
それが、僕には鼻についた…
被爆者との接点は1度だけ
修学旅行の思い出で
そこで体験談を聞いていたけど
だれひとりまじめに聞いているよーには思えなかった
教師でさえ…
なんでかを考えると…
悲惨さを伝えたい
自分だけがこんなつらい思いをしてきた
って強調されても
僕には伝わってこなかったから
極端にいえば
そーいうことで国から援助が出る
誰かから同情されて優遇される
そこを期待していない人も多いのだろうが
皆無とは思えない
そこを見分けられない以上
茶番でないと言いきれない
確かに被ばくはつらいことと
昨日の出演者を見ててもそー思う
でも
被爆だけがつらいわけじゃあないし
被爆が一番なわけじゃない
たとえば
飼ってた金魚が死んだだけでも
ものすごい悲しみや痛みを感じられる
そんなのは次元が違うと思う人言う人が多いんだろーけど
それは
あくまで個人の問題で
今まで何不自由なく育った小さな子供には
耐え難い苦痛であることに
違いはない
もしかしたら後を追いたくなるほど
悲しいことかもしれない
だから
どんな体験をしたか
を問題にすると
共有できなくなることも多くなる
何を体験したかじゃなく
体験から学んだことで
お互い共有できることも多くなり
思いやりだったりやさしさだったり
その中で、見えてくること
考えなきゃならないこと
しなくちゃいけないこと
を話しあえればよかったんだけど…
基本
あの時代から生き残った人らは
多かれ少なかれ
誰かを押しのけて生き残ってきていると
僕は想像する
それがいけないんじゃなく
それが生物だから仕方もないけど
そーすると
そこから学んだことを今に伝えるためには
自分が被害者ではなく
加害者だったりもするわけで
話としては、同情を引きにくくなり
映画としても感動が薄くなる
とすると…
被爆者として差別された人らが
それを学んで今に活かせなかった
活かしきれなかったから
まだまだ差別に苦しむ人らが減らない
そーゆー社会の中で
それに乗じて生きてきてしまったから
この今の社会は
理想からかけ離れてしまった…
とゆー反省もないまま
悲劇を語られても
いつかは風化してしまうと
たまたま
そーゆー苦痛や悲劇を
今のところはまだ知らない僕は
思いつつ…
あとは
個人の判断…とゆーことで
いろいろ考えることもあるし
自分の微々たる知識で
描くことではないとも思える
けど
そーゆー僕が想うこともあっていいし
時間が経った時に
何かのきっかけとか思い出とか
なんかになるかもしれない…
悲惨な体験と映像で
僕は時々目をつぶってしまった
もっと子供うちにこれを目の当たりにされるのは
ちょっとしんどい…
何にも知らない考えてない
ノーテンキな子供だったし…
それでも残したい、知らせたい
気持も、今の大人の僕なら理解できるけど
それを子供らに押し付けるのはどーかと思うし
僕は賛同しない
基本
語りづがなきゃいけないのは
戦争の悲惨さ
ではなく
悲惨なところから頑張った今
なんだと
僕は思う
単に
悲惨さだけを伝えても残しても
風化する
体験者じゃない僕らが残せること
伝えられることは
あくまでも誰かのもので
自分のものとは違う
だから風化する
でも
そこからがんばった今は
実体験だし
それを聞いた僕らが何を想い
どーしたのかは体験談として
話して残して、伝えられる
被爆体験者に対しての感情はないけど
もっと昔
僕がばかな子供だった頃
戦争を話す人らはいた
えらそーな感じがした
ま、思えば確かにえらいところもある
生き抜くこと
生き残ることが
生物として
勝者であると言えた時代もある
勝者だから、生き残って勝ち残ってきたから
えらい
のだ
が、今この時代に
生き残ることを勝者であると
言えるのか、呼べるのか
僕の答えは
違うと思う
過去を忘れ、自分を忘れ
それでも生きようとする生物としての
システムは
誰が望んでいるのかも含め
議論の余地がある
そこは、人としてそれぞれが求め考えればいいことだから
僕の答えは問題じゃない
必ずしも勝者として讃えられない
生き残ることがすべてではくなった
成熟し始めた社会の中で
偉くなり損ねた人らを
あわれと思うのかは別として
えらかったころのその人らは
自慢げに
生き残ってきたことを話していた
それが、僕には鼻についた…
被爆者との接点は1度だけ
修学旅行の思い出で
そこで体験談を聞いていたけど
だれひとりまじめに聞いているよーには思えなかった
教師でさえ…
なんでかを考えると…
悲惨さを伝えたい
自分だけがこんなつらい思いをしてきた
って強調されても
僕には伝わってこなかったから
極端にいえば
そーいうことで国から援助が出る
誰かから同情されて優遇される
そこを期待していない人も多いのだろうが
皆無とは思えない
そこを見分けられない以上
茶番でないと言いきれない
確かに被ばくはつらいことと
昨日の出演者を見ててもそー思う
でも
被爆だけがつらいわけじゃあないし
被爆が一番なわけじゃない
たとえば
飼ってた金魚が死んだだけでも
ものすごい悲しみや痛みを感じられる
そんなのは次元が違うと思う人言う人が多いんだろーけど
それは
あくまで個人の問題で
今まで何不自由なく育った小さな子供には
耐え難い苦痛であることに
違いはない
もしかしたら後を追いたくなるほど
悲しいことかもしれない
だから
どんな体験をしたか
を問題にすると
共有できなくなることも多くなる
何を体験したかじゃなく
体験から学んだことで
お互い共有できることも多くなり
思いやりだったりやさしさだったり
その中で、見えてくること
考えなきゃならないこと
しなくちゃいけないこと
を話しあえればよかったんだけど…
基本
あの時代から生き残った人らは
多かれ少なかれ
誰かを押しのけて生き残ってきていると
僕は想像する
それがいけないんじゃなく
それが生物だから仕方もないけど
そーすると
そこから学んだことを今に伝えるためには
自分が被害者ではなく
加害者だったりもするわけで
話としては、同情を引きにくくなり
映画としても感動が薄くなる
とすると…
被爆者として差別された人らが
それを学んで今に活かせなかった
活かしきれなかったから
まだまだ差別に苦しむ人らが減らない
そーゆー社会の中で
それに乗じて生きてきてしまったから
この今の社会は
理想からかけ離れてしまった…
とゆー反省もないまま
悲劇を語られても
いつかは風化してしまうと
たまたま
そーゆー苦痛や悲劇を
今のところはまだ知らない僕は
思いつつ…
あとは
個人の判断…とゆーことで
コメント
この記事へのコメントはありません。